この警告は、今の私たちにも非常に現実的です。祈りが切望だったときには、神の助けを切実に求めたのに、望んだ場所に入るとすぐに、その恵みを日常に埋没させてしまいます。最初に新しい職を得たとき、重い病気を乗り越え回復したとき、家庭が安定したとき、感謝の念から始まりますが、やがて馴染みになって忘れてしまいます。そして、馴染みはしばしば忘却を呼びます。申命記8章17節は人間の心を正確に刺します。「あなたが心の中で言う、『わたしの力と私の手の力でこの富を得たのだ』と。」罪は大それた反逆だけではありません。神の恵みを自分の実力に変換して語る瞬間にも働きます。
もちろん聖書は惰眠を美徳とはしません。誠実な労働や責任ある努力は尊いものです。しかし、その努力を与えた方、健康や知恵を許してくれた方、実を結ばせた方を忘れてはいけません。そのために、申命記8章18節はこう言います。「あなたの神、主を覚えなさい。彼はあなたに富を得る力を授けられることを。」記憶は単なる追憶ではありません。神を神として認める信仰の態度です。私の人生の成就を解釈する方法が変わるのです。
この言葉は日常の中でどう適用できるでしょうか。例えば、多忙な1週間を過ごし、給料日を迎えたとき、私たちは数字だけを確認して終わることもあります。しかし、一旦立ち止まって考えてみると、その中には説明しにくい神の守りが隠されています。事故なく過ぎた通勤や乗り越えた体、支えになった関係、あきらめない恵みがあります。また、ある日には期待通りの結果が得られないこともあります。そのときにこそ、申命記8章は有効です。神は不足の時も豊かなときも、私たちを低め、教え、依存させてくださいます。豊かな日には感謝で、欠乏の時には信頼で神を覚えることがこの章が教える生き方です。
例を一つ挙げると、ある人は就職準備中に長い間不安を耐えました。答えが見えず、毎日焦り、ちょっとした知らせでも大きく動揺しました。やがて望みの場所に入ると、最初は感謝しましたが、間もなく再び成果や認められることにとらわれ始めました。そのときに申命記8章を読み、自分の気づきとなったのです。困難なときだけ神が必要なわけではなく、うまくいっているからこそ、より深く神を覚える必要があるということです。荒野の中でも神であり、良い土地でも神である。環境が変わっても、支配者は変わりません。
申命記8章は結局、記憶の章です。荒野を覚え、マナを覚え、食事を与え着飾った神を覚えなさいという言葉です。4節では、「この40年間、あなたの衣服はすりへらず、あなたの足も腫れなかった」とモーセは言います。この表現は非常に具体的で心に残ります。神の看護は抽象的な慰めではなく、実生活の必要を支える手の動きでした。私たちの人生にもこのような恵みがたくさんあります。大きな奇跡に見えなくても、時が経てば確かに保存された跡があります。倒れずに支え続けてくれた日々、予期しない援助、なんとか耐え抜いた時間たちです。
さらに申命記8章は、神の訓練が単に現実を耐え忍ぶためだけのものでないことを示しています。神は民を荒野で低めますが、その目的は破壊ではなく従順を教えることです。神は飢えさせた後にマナを与え、欠乏を通じて言葉の重要性を再認識させました。これは神が民を離れない証です。信徒は偶然に訓練されるのではなく、神の御手のもとで成長し、叱責の中にも恵みを受けるのです。
したがって、申命記8章を読むことは、単に古の荒野を思い出すだけではありません。今日の私たちの人生の荒野とカナンもともに振り返ることです。欠乏の場所では文句ではなく御言葉で生きることを学び、豊かな場所では高ぶりではなく感謝をもって生きることを学びます。神は欠乏の中だけでなく、豊穣の中でもなお善なる方です。大事なのは状況ではなく記憶です。神を忘れない者は、荒野でも崩れず、満腹の中でも自分を高めません。
今日私たちに必要な訓練もここにあります。うまくいかないときだけ神を求める信仰を超え、うまくいくときこそ神を畏れる生き方です。手に多くを握るほど、より多く感謝し、計画がうまくいくほど、よりはっきりと神を認める態度です。申命記8章は、その単純だけれど深い真理を、今日の私たちの忙しい生活の中でもう一度しっかりつかむことを促します。荒野のときも、実りのときも、私たちを生かしてくださるのはただひとり、主なる神です。