三位一体の神の名によって洗礼を施すという事実も重要です。洗礼は曖昧な宗教心への入門ではありません。父・子・聖霊の名の下に、本当の神を信じる信仰に入る告白です。教会がこの点を古くから大切にしてきたのもそこに理由があります。洗礼の意味が曖昧になると、福音の輪郭もぼやけやすくなるのです。
では、すでに洗礼を受けた人にとってこの証は今どのような意味を持つのでしょうか。洗礼はアルバムの一枚の写真に残る思い出ではありません。今の口調や選択、関係や習慣までも映し出す鏡です。私は自分勝手に生きても良いというわけではなく、キリストの血の代価で買い取られた民であるという事実を改めて思い出させてくれます。
職場で小さなミスを隠す方が楽だと感じる瞬間があります。家では、家族に向かって鋭い言葉を投げかけ、疲れてそうしたと片付けることもあります。オンラインでは、誰にもわからないかのように誇張した表現や軽率な非難を簡単に投げかけてしまうこともあります。そのようなとき、洗礼は静かに問いかけます。あなたは誰に属しているのか、あなたの唇と指先も主のものでないのかと。
洗礼は罪を犯さない魔法ではありません。むしろ、罪を軽く見てはいけない記憶です。倒れたときも絶望の中に座り込むのではなく、再び悔い改めの場所に戻る召しです。洗礼を受けたことは、私が完璧な人になったという意味ではなく、過ちや罪の中にあっても再び主に立ち帰る道が確かにあることを示しています。
だからこそ、洗礼の意味は水場で終わりません。礼拝の時間に歌う賛美や、御言葉に従うこと、お金の使い方、人との接し方の中で続いています。誰かを許せないときや、自尊心を優先して真実を曲げたくなるとき、損得を気にして真実を歪めたくなるときも、洗礼は新しい命を覚えさせてくれます。古い自分の反応ではなく、キリストに属する者の歩むべき道を考えさせてくれます。
洗礼を受けることを考えている方には、次の問いかけをしてみてください。自分は人前で良く見られたいから洗礼を受けようとしているのか、それともイエス・キリストが私の唯一の救い主であると告白したいのか。洗礼は体裁を整える宗教的な儀式ではなく、信仰の告白です。その告白は完璧な人の言葉ではなく、恵みを必要とする人の言葉です。
すでに長い間洗礼を受けている人でも、人生が信仰と離れていると感じることもあるでしょう。そのとき、洗礼の意味が消えたわけではありません。むしろ、主が再び福音の場所へ招いてくださる合図かもしれません。ローマの信徒への手紙 6章をゆっくりと読み、使徒行伝 2章において悔い改めと洗礼が共に宣言された場面を振り返ってください。より多くの御言葉を求めるなら、聖書を読むや今日の御言葉を活用してもよいでしょう。忘れかけていた告白が再び目覚める場所には、常に御言葉が根幹にあります。
洗礼は水よりも深いものです。キリストの死と復活に結びつく者、三位一体の神に属する民、教会の中で信仰を示す弟子の道がその中に込められています。今日の始まりや終わりに、洗礼を受けた日の光景を思い出すよりも、その意味を今の選択に取り入れてみてください。どの王の民なのかを覚えることは、壮大な計画よりもまず、日々を違った歩みに変える力となります。