だからこそ、不安な日には、漠然と大丈夫になるだろうと繰り返すよりも、むしろ、まず心配の名前をきちんと書き出してみることが役立ちます。何が怖いのか、自分は何を失いたくないのか、なぜこの問題が自分を揺さぶるのか、静かに見つめる時間を持つことです。そして、その問題を御言葉の前に置いてみることです。コロサイ書3章は、平安と共に感謝と御言葉が豊かに共存すべきことを教えています。次の16節にはこうあります。『キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るように。』つまり、平安は空虚な心から自然に生まれるのではなく、御言葉によって満たされた心の中から育つのです。御言葉による平安は長続きしませんが、福音によって満たされた心は揺れても再び中心を見いだします。もし御言葉を読み続ける習慣や黙想の訓練が必要であれば、『聖書の読み方』や[今日の御言葉]を通じて毎日静かに聖句を追うことも効果的です。
この点で感謝もまた重要です。感謝は問題を縮小する技術ではなく、神がすでに与えてくださった恵みを決して忘れない信仰の態度です。人は不安になると、まだ来ていない損失のみを大きく見てしまい、すでに受けた恵みはすぐに忘れてしまいます。しかし、救われた信徒にとって最も大きな恵みはすでに授けられました。私たちはキリストにあって神と和解し、非難から解放され、神を父と呼べる子どもになったのです。この事実を覚えれば、今抱えている問題は依然重くのしかかりますが、それが私の人生の支配者にはなり得ません。
さらに、平安は従順とも深く結びついています。詩篇119篇165節はこう言います。『あなたの律法を愛する者には大いなる平安があります。』心が不安な原因は、環境だけではなく、時には従順を後回しにしていることや、未解決の罪、絶えず抱えている恨みなど内面の乱れから来ることもあります。そのときに必要なのは、漠然とした慰めではなく悔い改めと立ち返りです。罪を軽視しながら平安を期待することはできません。逆に、神の前に正直に立ち、間違いを認めて悔い改めるとき、状況がすぐに変わらなくても、心は再び正しい位置に戻ります。
平安は、一天に成し遂げられる感情ではなく、御言葉と信仰の中で育まれる態度でもあります。朝から夜まで多くの知らせや比較により心が乱される時代において、私たちは意識的に目線を正していく必要があります。ちょっと立ち止まって聖書の一節をゆっくり読むこと、繰り返される言葉をじっくり見ること、神様がどのようなお方なのか黙想することは、思ったよりも大きな違いをもたらします。不安をなくす即効性の薬のようには見えなくても、こうした時間を積み重ねることで、心の中心は確実に変わっていきます。同じ問題の前でも、頼りすぎず、正しく判断できるようになるのです。継続的に御言葉を読む習慣を身につけたいなら、[聖書の読み方7つのコツ]などの文章も参考に、自分に合ったリズムを見つけてみると良いでしょう。
結局、キリスト者の平安は、この世が語る安心感とは異なります。世の中は予測可能性やコントロールを求めて平安を我がものにしようとしますが、聖書は神との和解とキリストの支配の中の平安を語ります。だから、信じる者は涙を流すこともあり、重荷を感じることもありますが、倒れた場所から再び立ち上がる理由を知っています。自分の人生の最終的な結論が私の能力にあるのではなく、誠実なお方、主なる神にあることを知っているからです。
もし、今日心が特に騒がしいときは、まず自分の内側を整えることが、恐れなのかキリストの平安なのかを振り返ってみてください。目の前の問題を否定せずに、その上で主を覚えること、そして御言葉に照らしながら今日一歩の従順を静かに踏み出すこと、それがまさに聖書が語る平安は、遠い概念ではなく、日々の生活の中で少しずつ芽生え始めるものです。不安が完全になくなった後にこそ平安を学ぶのではなく、その揺れる瞬間に福音にしがみつき、主の支配を信頼することを学び取ります。