疑いが深まったときに握る言葉
疑いが深まるとき、聖書はただ私たちを責めるだけではありません。トマ、アサフ、ペテロの場面を通じて揺れる心をどこに向けるべきか、日常の中で握る
Bible Habit
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疑いが深まったときに握る言葉

疑いが深まったときに握る言葉
信仰生活を長く続けていても、始めたばかりでも、疑いは思ったより身近にやってきます。祈っていたことがますます絡まるように見えたり、御言葉を読んでも心が動かない日もあります。そのとき、人は二つに傾きやすいです。自分を責めて「なぜこれも信じられないのか」と自問してしまったり、揺れる心を軽視して少しずつ主から距離をとったりします。
聖書は、疑いを軽く流したりしません。しかし、それと同時に、揺れる人を冷たく突き放すこともしません。むしろ、信仰が弱まった場所に主がどう近づいていくのか、いくつもの場面で示してくれます。疑うときこそ、感情だけを見るのではなく、聖書がその場所をどう映しているかを先に見る方が良いです。
最もよく知られた人物の一人に、トマがあります。ほかの弟子たちが復活したイエスさまに会ったと言ったとき、トマはすんなりと受け入れませんでした。彼は『わたしの指に彼の釘跡をさし入れ、わたしの手をその釘跡に差し入れ、わたしの横腹にさし入れない限り、決して信じません』と言います(ヨハネの福音書 20:25)。頑固な言葉のように聞こえますが、その奥には崩れた期待と深い喪失があったのでしょう。
イエスさまはトマをそのまま見捨てませんでした。七日後、再び弟子たちの間に現れて、トマに手とわき腹を見せ、こう言いました。「信仰の薄い者にならず、信じる者になりなさい」(ヨハネの福音書 20:27)。主は疑いを褒めたわけではありませんが、疑う弟子を見て見ぬふりもしませんでした。この場面は、単なる冷笑だけではない信仰の奥行きを示しています。ときに疑いは、喪失や恐怖から生まれる言葉です。
トマの立場は、今日の私たちとも近しいです。長らく祈った問題に何も変化がなく、当面は静かに見えても心の中では「本当に聞いておられるのか」と問いかけてしまいます。教会で失望な出来事に出会えば、人への失望が神への距離感にすり替わることもあります。そういうときに必要なのは、疑いを巧みに隠す技術ではなく、トマのように結局イエスさまの前に立つことです。主に持ち寄った疑いと、ひとり育てた疑いは、結果がまったく違います。
詩編73篇のアサフも深く揺れ動きました。善人の繁栄を見ると心が崩壊し、「私の心を清め、私の手を洗い清くしたことは虚しいことだった」と語ります(詩編 73:13)。信仰を守って生きた時間が無に帰すように感じるほど辛かったのです。この告白が見慣れないのは、私たちも似たような瞬間をしばしば経験するからです。
正直に働いて損をしたり、原則を守っているのに遅れをとったりすることもあります。関係においても、誠実に謝り待ち続けたのに、相手はますます離れていくこともあります。そのときに心の片隅で「信仰を持つのは本当に正しいのか」と思うこともあります。アサフの告白は、その現実の前で、信仰者がどれだけ正直になれるかを示しています。
詩編73篇の転換点は、アサフが混乱の中で自分の内にとどまらなかったことにあります。彼は「神の聖所に入り、その終わりを悟った」(詩編 73:17)と言います。状況がすぐに変わったわけではありません。まず変わったのは、見る視点でした。目の前の比較や憤りだけを見ていた心が、神の前で結局を学び直し始めたのです。
この場面は、疑いを扱う非常に実践的な道を示しています。揺れるとき、私たちはみな同じ質問を繰り返します。なぜこうなったのか、なぜ答えが遅いのか、なぜ私だけこんなに乾いてしまったのか。長い間考え込みすぎると、疑いはますます大きくなります。聖所に入るというのは、礼拝の場所や御言葉の場所に自分の混乱を持ち込むことです。感情が整理されていなくても、神の前に立つことです。
福音書には、信仰が揺らぐもうひとつの場面も描かれています。暴風の中、水の上を歩いたペテロが、風を見ると恐怖に包まれて沈みそうになったとき、「主よ、救い取ってください」と叫びました(マタイの福音書 14:30)。短い祈りです。でも、その短い叫びが信仰の方向性をよく示しています。ペテロは沈みかけたときも、イエスに向かって手を伸ばしました。
私たちの現実も同じです。良い言葉よりも、緊急の祈りのほうが真実味を帯びるときがあります。出勤前の車内で、病院の待合室で、返信のこない携帯を見ながら、「主よ、今、私は心が崩れそうです」と祈ることが必要です。整った表現じゃなくても構いません。主に向かうひとことが、ひとりで心を閉ざす沈黙と違います。
疑いが訪れるとき、最初にやるべきことは、自分の心に正確な名前をつけることです。ただぼんやりと「最近信仰がない」と大雑把にまとめると、道が見えにくくなります。代わりにこう書いてみてください。「今、私は神の善良さを疑っている」「神は私の祈りを聞いていないと感じる」「人から受けた傷のせいで、神も遠く感じる」など。名前をつけると祈りも具体的になり、読むべき御言葉もはっきりします。もっと聖書を読みたいなら、「今日の言葉」や「365日の読み計画」などを参考に、落ち着いて味わえる御言葉をじっくり見てください。
次に、疑いがどこから生まれたのかを振り返る必要があります。疲れからか、長い傷からか、比べる心からかを確認してください。エリヤが祈りの後、萱の木の下で倒れたとき、神は最初に彼を休ませて食べさせました(列王記上 19:5-8)。霊的な問題といっても、いつも霊的な言葉だけを重ねるわけではありません。十分に眠れず、気づけば緊張の連続で、一人で耐えている時間が長引くと、心は簡単に暗くなります。
トマの場面は、その時代背景を考えるとより身近に感じられます。弟子たちはイエスさまの十字架の後、恐怖に包まれていました。ローマの処刑は単なる死ではなく、公の恥と恐怖を残す出来事でした。その師に従った弟子たちは、期待を打ち砕かれたまま扉を閉めていたのです。復活の知らせさえも簡単には信じ難い状況でした。トマの反応は、冷淡な理性の勝利というよりも、壊れた期待による防御のようなものでした。
だからこそ、私たちが疑いを扱うときは、言葉だけでなく、その奥にある傷と恐怖も共に見る必要があります。失敗を経験した後、神を疑う人もいます。長い待ちを経て疲弊した人もいます。罪悪感があまりに大きく、「本当に神は私を受け入れるだろうか」とためらう人もいます。表面的には似ていても、内なる事情はそれぞれ異なります。
そんなときにこそ、福音の中心を忘れずに持つことが大切です。私たちの信仰は、自分の心の安定に頼るものではありません。十字架と復活の歴史的事実、すなわち、イエス・キリストが罪人のために死に、よみがえられたという福音に支えられています。私たちは、行いによって義とされるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるのです。感情の天気が変わっても、福音の基礎は揺るぎません。今日、確信に満ちているかどうかではなく、握るべき救い主が誰であるか、その事実こそが最も重要です。
日常の中で大きな計画よりも、小さな習慣の積み重ねが力になります。一天の最も忙しい時間帯の前に、短くとも詩篇一篇を読み、その一文を書き留めてみてください。例えば詩編73を読んだ後、「私は比較の中で揺れていないだろうか」と問いかけること。ヨハネの福音書20章を読んだなら、「私は主がすでに証しを与えていることより、自分の方法による確認に固執していないか」と振り返ること。継続的に読むリズムが必要なら、「今日の御言葉」や「365日読む計画」なども参考にして、静かに味わえる御言葉をじっくり選んでください。
もう一つは、疑いが深まるほど、共同体の礼拝を軽視しないことです。ひとりで御言葉を読む時間は貴重ですが、共に賛美し、御言葉を聞く場所は思った以上に大きな力を持ちます。揺れる日には、自分が神にしっかりとつながっているように思えなくても、礼拝の場で神が私を支えておられることを再び学びます。何気なく座っていた礼拝の中の一節が、長い間閉ざされていた心を開くこともあります。
誰かは、今も長く答えのない祈りに疲れているかもしれません。誰かは、子どもや健康、関係の傷のために、信仰の言葉が虚しく感じられることもあります。そのような場所で必要なのは、自分を責める言葉ではなく、主の前に正直に立つ勇気です。「主よ、私は今、信じきれません。ですが、主から離れたくはありません。」この告白は小さく見えるかもしれませんが、信仰にとって大切な一歩です。
疑いが来たからといって、信仰が終わるわけではありません。むしろ、そのときどこへ向かうかが大切です。トマのように主の前に立ち、アサフのように聖所に入り、ペテロのように短く呼び求めてください。揺れがなくなった後に神へ行くのではなく、揺れるまま神に向かう人こそが、信仰の道を歩んでいます。今日、心が暗くても、御言葉の前にもう一度視線を向ければ、見えなかった道が少しずつ開けていくのを見つけることができるでしょう。
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