夕方になって、より難しく感じる人も多いです。外での努力による緊張が家に帰るとほどけて、言葉が荒くなりやすいためです。家族の一言に過敏になったり、小さなミスでも声が大きくなったりします。心の中では、「今日はどれほどつらかったか、あのような言葉は言えまい」と思うかもしれません。けれども、つらい一日が罪を正当化するわけではありません。テトス2章の恵みは、疲れているからと愛情を後回しにしないように私たちを引き留めます。
ここで思い出すべき言葉もあります。ルカによる福音書7章で、イエスは罪深い女を非難する視線を変え、「多くの赦しを受けた人は多く愛する」と語られました。赦しを忘れると、他人の欠点に対して過度に冷たくなります。一方、自分の罪の赦しを思い出すと、心に一拍遅れが生まれます。すぐに叱咤する言葉をやめ、まずは謝罪の力もそこから出るのです。
パウロも同様の真実を語っています。コリントの信徒への手紙第一15章10節で、「しかし、私ができたのは、神の恵みによるのです」と述べています。彼は過去の過ちを忘れず、現在の努力を自己の功績として誇りません。恵みを知る者は失敗を軽視しませんが、失敗を自己のアイデンティティにしません。転びながらも、立ち上がる神を見ているからです。
多くの人がこの点で混乱します。恵みを強調すると服従が緩むのではと心配し、服従を話すと恵みが曇るのではと案じます。しかし、テトスへの手紙はその二つを引き離しません。私たちは、キリストの功績によって救われたからこそ、服従の道に招かれるのです。恵みが服従を生み、服従は恵みを受けた者から結ばれる実なのです。
テトスへの手紙2章14節はそこを明確に示しています。イエス・キリストは「自分を差し出すために、すべての不法から私たちを贖い出し、清め、自分の良いわざに熱心な民とさせてくださいました」と記されています。イエスの自己犠牲は、ただ罪悪感を和らげるだけのことではありません。私たちを贖い清め、善きことを喜び生きる民に立て上げる、贖いの働きです。
だから、恵みは決して軽い言葉ではありません。神の子が血を流して受け取られた恵みです。この事実を頻繁に黙想すればするほど、罪を軽く見ることは難しくなり、また、罪のために主に近づくのをやめてしまうこともできません。十字架は罪の重さを表すと同時に、その罪人を包み込む愛も示しています。
もし、同じ場所で何度もつまずいているなら、テトス3章5節も併せて掴む必要があります。『私たちを救い出されたのは、私たちの義なる行いによるのではなく、彼の憐れみによるのです』とあります。この箇所を前にすれば、誇りも諦めも消え去ります。自分の力で積み上げた正義ではなく、神の憐れみにより生きているということを知れば、再出発を恥じることもなくなります。
実践の面では、大掛かりなことは多くありません。今日の会話の中で過度な不満を控えることや、事実を歪めて味方を作る習慣をやめること、疲れても家族に優しく挨拶すること、誤りに気付いたら弁解よりも先に謝罪を選ぶことです。こうした小さな従順を積み重ねることで、人の雰囲気は変わってきます。聖書が語る聖なる生き方は、いつも大きな出来事だけではありません。
聖書を読む習慣も同じように続けましょう。聖書を読む でテトス章をゆっくりと読みながら、「恵みが私たちを養育する」との箇所で一旦止まってみてください。今神が私の中で取り扱っている習慣は何か、恵みという名の背後に隠した怠惰はないか、人間関係の中で反省すべき口癖は何か、静かに見つめると良いでしょう。もっと継続して読みたいなら、「今日のマクチャン読む表」や「365日読むスケジュール」も役に立ちます。
信仰は完璧な一日を送る技術ではありません。罪を素早く認め、福音によって再び立ち上がり、ためらわず今日の服従を学ぶ道です。テトスへの手紙は、その道を突き進めとだけ促すものではありません。恵みがまず現れ、それが今も私たちを教え続けると語っています。だから、今日の服従は不安な自己証明ではなく、すでに主にしっかりとつながっている者からの応答となるのです。
テトスへの手紙を読み終えると、こういった問いが心に残ります。神は今、私の人生のどの部分を整えておられるのか。私は恵みを言い訳にして緩んでいるのか、それとも恵みに信頼して再び服従の位置に戻っているのか。その問いを胸に一日を過ごすと、恵みはもはや抽象的な言葉ではなく、今日の表情や言葉、選択の中に染み込む生きた福音となっていくのです。