今日、私たちにとってもこの告白は依然として鋭く問いかけてきます。私たちはローマの皇帝への燭台(ふるまい)をしませんが、他の主を作り出して生きることは容易です。成功やお金、人からの承認や不安が心を支配します。外見上はイエスを主と呼びますが、実際の決定が恐怖や欲望に左右されると、口先の告白と人生の方向が乖離してしまいます。だからイエスは、「あなた方は私を呼びつつ、『主よ、主よ』と言いながらも、私の言うことを行わないのはなぜか」(ルカによる福音書 6:46)と問いかけました。この質問は今も私たちに投げかけられています。
たとえば、大切な選択の前に焦ってしまうことがあります。損をしたくない、他の人より後れをとりたくないと考えると、神の意志よりもその場の利益を優先してしまいます。そんなとき、「イエスは主」という告白は抽象的な言葉ではなく、具体的な基準となります。私が正しいと感じる道よりも、主の御言葉を優先できるか、楽な道よりも真実と愛の道を選ぶことができるかという問いです。ある人は職場でちょっとした嘘をつくことは問題ないと考えるかもしれません。しかし、もしイエスが主であるならば、クリスチャンは結果よりも先に、主の性格に従うべきです。たとえ一時的に損をするように見えても、主の支配のもとにいる生き方は誠実の実を結びます。
また、人間関係がこじれたとき、私たちは本能的に自己防衛を優先しがちです。屈辱感にさいなまれるとすぐに攻撃的になり、相手を責め、自己正当化を図ります。しかし、イエスを主とする人は、自分の感情が最終的な裁判官にならないようにします。主の御言葉の前で、一歩踏みとどまり、自分の正義が本当に福音に適っているかを振り返ります。ときには謝罪し、ときには忍耐し、ときには愛をもって真実を説く選択をします。こうした選択は弱さからではなく、自分の人生の王座に自分ではなく、キリストを迎えることで可能になる従順です。
ここでひとつ重要な事実があります。イエスの支配は、私たちを縛る冷たい支配ではありません。聖書が言う主は、罪と死の権勢からご自分の民を解放する善き支配者です。その支配は自由を奪うのではなく、むしろ偽りの支配者に引きずられる人生から解放します。不安が主となると、人は休息を失います。欲望が支配すれば満足は得られません。人の視線が支配すれば、誠実さも失います。しかし、イエス・キリストが主であるとき、私たちはやっと本来の位置を見つけるのです。被造物は創造主の前に、人間は救い主の前に、羊は牧者の前に立つのです。その場所は低くなる場所ですが、同時に最も安全な場所でもあります。
だから、「主なる方」という呼び方は二つの顔を持ちます。一つは慰めです。私の人生が偶然や混乱に投げ込まれているのではなく、主の手の中にあるという安心です。もう一つは挑戦です。自分の意志ではなく、主の御心に人生を合わせる召命です。この二つは対立しません。むしろ共に歩みます。主が真に善なるお方だからこそ、私たちは安心して従い、主が全宇宙の主だからこそ、私たちは従いながらも安心を得られるのです。
最終的に、「イエスは主」という告白は礼拝堂の中だけでは鳴り響かない、日々のリズムを変える告白です。朝目覚めて時間の使い方を決めるときも、お金の使い道を考えるときも、家族や隣人に接するときも、この告白は方向性を示します。私の人生の中心に誰が座っているのかが、言葉の結びつきや選択の基準、忍耐の道を変えるのです。馴染きって軽んじていた「主なる方」という呼びかけを、今日もう一度ゆっくりと心に留めてみてはいかがでしょうか。その名前は漠然とした宗教の言葉ではなく、教会を動かし、信徒を支え、今も私たちの日常を正しく立て直す明確な信仰の告白です。
一つにまとめるとこうです。「イエスは主」という告白は単なる呼称ではなく、復活されたキリストの神性と主権を信じて、日常の選択さえもその支配のもとに置く、信仰の宣言です。この告白は私たちを重荷にさせるフレーズではなく、人生の方向性を正す恵みの真実です。だから、信徒たちは毎日新たに問い続けます。今日、私の心と言葉と選択を実際に支配している方は誰なのか。その問いの前であらためてイエスを主と告白する生き方こそ、信仰の道です。