教会は古くから communionを非常に重んじてきました。初期教会は洗礼と communionを、主から委ねられた神聖な印とみなしてきました。時とともに、パンや杯の意味について多くの議論が交わされましたが、一貫して中心にあったのは、キリストの一度の贖いを繰り返すことではなく、すでに成し遂げられた十字架を記憶し、宣言するための食卓であるということです。
この告白は、ヘブル人への手紙に伝わる福音とも呼応します。イエス様は、自己を一度だけ捧げ、罪のために取って代わりになられる方であり、その犠牲は二度と繰り返す必要がありません。したがって、 communionはイエスを再び犠牲にする行為ではありません。すでに成し遂げられた神の救いを信仰をもって受けとる場です。教会はパンと杯によって新たな救いを生み出すことはありません。ただ、すでに示された恵みを感謝し、受け取るのです。
communionには記憶だけでなく希望も宿っています。パウロは、「あなたたちがこのパンを食べ、この杯を飲むたびに、主の死を宣言し、その日が来るまで伝えるのです」と述べています(1コリント11:26)。 communionは後ろを振り返り十字架を記憶するとともに、未来を見つめるものであり、再び来臨される主、成し遂げられる神の国、涙や罪の終わる宴を待ち望むのです。
この希望は思ったよりも日常の力となります。ある時は信仰よりも日々の重荷を感じることもあります。積み重なる仕事、解決しない人間関係、繰り返す罪悪感に心が沈む日もあります。そんなとき、 communionは大きな解決策を一気に提供するのではなく、自分が誰の恵みで生きているのかを再確認させてくれます。今日も私は功績ではなく、主の体と血によって生きているという事実をしっかりと握るのです。
たとえば、職場でミスをして家に帰ると、その場面が頭をよぎることもあります。自分の一言で関係がぎこちなくなったのに、プライドで先に謝ることができない日もあります。そんな日に communionを思い出すと、気持ちの向きが少し変わります。神が私を値無しで受け入れてくださったなら、私も隠さず罪を認めます。主が私と和解してくださったなら、私もまず歩み寄る理由が生まれます。
communionは感情を大きく動かす儀式ではないかもしれません。涙が出る日もあれば、とても静かな日もあります。大切なのは、感情の強さではなく、信仰の向きです。今、誰に依り頼っているのか、何によって義とされているのか、何が教会を教会たらしめているのか―これらの問いを再び福音の前に引き戻すのです。
日曜日の礼拝でパンと杯を受け取るときでも、一瞬でもよいので、次の問いに立ち返るとよいでしょう。私は主の恵みよりも自分の調子を信じてはいないか。口先で許しを告白していても、心の中では誰かを遠ざけていないか。私の一週間を支えたのは、成果や承認だったのか、それとも十字架の恵みだったのか。 communionは私たちを縛る裁きの場所ではなく、十字架の前にもう一度立ち上がる場所です。
そのため、馴染み深い儀式でも、軽々しく流すのは良くありません。パンと杯は小さく静かかもしれませんが、その中には福音の核心が込められています。主は私たちのために体を捧げ、血を流して新しい契約を結び、その恵みの中に教会を招き入れました。 communionを正しく考えるほど、自分を低くし、十字架をよりはっきりと見つめることができるのです。忙しい一週間の中でも、その食卓を記憶する人は、再び恵みに生きる道を学ぶのです。