そして、ハバクク書第3章のクライマックスは、多くの信仰者が長らく愛し続けてきた御言葉にあります。「あなたの神ヤハウェはあなたのただ中にいて、救う全能者である。彼はあなたのために喜びを抑えきれず、黙ってあなたを愛し、あなたのために喜びと楽しみをもって叫ばれる」(ハバクク書3:17)。この一節は単なる感傷的な慰めではありません。先に述べた裁きの宣言を乗り越えた後に与えられる、安くない慰めの約束です。罪への真剣な扱いの後で、神がご自分の民の中にとどまり、喜ばれるという約束です。
特に、「静かに愛される」という表現は深い響きがあります。私たちは愛を、いつも大声や即時の変化とともに期待しがちです。しかし、神の愛は時に騒ぎよりも深いものです。告発の騒音に満ちた心にも、神はキリストにあって自分の民を見放しません。揺れる日々の中でも、主は自分の約束を投げ捨てず、忠実にご計画を成し遂げておられます。
日常に引き寄せてみると、ハバクク書第3章はいくつかの問いかけを残します。私は神の御言葉を聞くよりも馴染んだやり方だけに頼っていないか。神を知っていると言いながらも、決断の瞬間に自分の計算や感情にだけ依存していないか。さらに、託された責任を奉仕ではなく権利のように考えていないか。エルサレムの問題はあまりにも大きくて自分には関係ないと思っていても、悔い改めない限り、いつでも私たちの癖になり得る問題です。
例えば、忙しい一日が続くと、私たちはすぐに礼拝や御言葉を後回しにしがちです。見た目にはやり遂げたように思えても、心は次第に荒れて小さなことにさえ敏感になります。そのとき問題なのは、単なる疲れだけではなく、神に近づかないことからくる枯渇です。ハバクク書2:2の四つの表現、すなわち聞かず、学ばず、頼らず、近づかない状態は、意外と早く私たちの心に入り込みます。だからこそ、悔い改めは特別な出来事の前だけではなく、日々の向き合いの中での転換点であるべきです。このような日々の御言葉の場には、『聖書の読書習慣7つのコツ』(/blog/bible-reading-habit-tips)のような原則も役立ちます。
同時に、この章は心の傷みを抱える人にも大きな慰めをもたらします。自分の失敗ばかりに目を向ける人や、過去の恥ずかしさのために神の前に躊躇してしまう人に、ハバクク書は語ります。神はご自分の民の中にいて、救いをもたらす全能者だと。したがって、真の悔い改めは、絶望の扉ではなく希望の扉です。神は高ぶる者を低くされますが、謙遜に身を投じる者を見捨てません。
ハバクク書第3章を読み終えると、信仰は結局、神中心に再び整えられることだと学びます。罪を罪だと認める正直さ、自分の義に頼らず神に身を委ねる謙虚さ、そして回復の約束を軽視しない敬虔さが共に必要です。裁きの言葉の前で心を低くし、回復の言葉の前で再び神を信頼すること――これこそが、この章が私たちに与える恵みです。
今日も世界は騒がしく、心は揺れ動きやすいです。しかし、ハバクク書第3章は、神が今もなお自分の民の中におられることを思い起こさせます。彼は正義の神であり、救いを与える全能者です。だからこそ、恐れや安楽さの間をさまようのではなく、畏れを持って神に近づくことができます。裁きの言葉を語る同じ神が、回復を約束し、自らの民に喜びと歌声をもたらすことを思い出すと、私たちの日々も少しずつ違った光の中に置かれるのです。
ハバクク書は短いながらも、福音の重要な流れを鮮やかに示す書です。神の正義と、残された者を支え、回復させる神の恵みがともに流れています。だからこそ、この御言葉を黙想すればするほど、私たちは自己肯定ではなく、神の品性に立つことを学びます。今日ハバクク書第3章をもう一度読み、裁きの警告に対して自分を省み、回復の約束にはますます信頼を深めてください。そうすれば、御言葉の中に留まる歩みは、日々の感情に流される信仰から、神中心の新しい信仰へと私たちを導きます。