しばらくして、ダマルが妊娠したと知ったユダは、「彼を引き出して燃やせ」と言います(創38:24)。他者には厳しい一方、自分の罪には鈍感な心の姿を示す場面です。しかし、ダマルは証拠の物を見せ、その父親が誰かを明かします。すると、ユダはもはや隠れることができなくなります。彼は裁きの座に立っていると思っていましたが、実際には自ら裁きの下に置かれていたのです。
創世記38章26節は、この物語の核心のように読めます。「ユダはそれらを見て言った、『彼は私よりも正しい』」。この短い言葉は重みがあります。これはユダが完全に変わったという意味ではありませんが、最低でもこの場では自己の罪を否定せず、ダマルにより大きな責任を押しつけることもありませんでした。聖書の悔い改めは、いつもこのような場所から始まります。弁明よりも認めること、体面よりも真実が優先される場所です。
物語の最後には、ダマルが双子を出産し、ペレとゼラの名前が記録されます。一見、奇妙な誕生物語の終わりのように思えますが、聖書全体の流れの中では、これらの名前は非常に重要です。ペレは後にダビデへの系譜につながり、マタイ1章3節ではイエス・キリストの系譜にも登場しています。神は清廉な人だけを選んで贖いの歴史を継続していくわけではありません。人の罪を罪と呼び、その上で大いなる恵みによって約束の道を続けておられるのです。
この場面では一瞬立ち止まり、考えてみる必要があります。私たちは聖書の登場人物を、あまりに早く英雄や悪人として分類しすぎることがあります。しかし、創世記38章は、その単純な構図を打ち破ります。ユダは確かに罪を犯しましたし、ダマルの歩んだ道も容易ではありませんでした。それでも、神はその入り組んだ場所さえも見放さず、責任と罪の重さを包み込みながら、約束の道を示し続けておられます。
これは罪を正当化することではありません。人間の失敗が、神の契約を壊すことができないという証です。
今日の私たちの生活も、この物語の前に置いてみることができるでしょう。家庭の中で先送りにしている責任に目を向けてみたり、親として、子として、配偶者として、教会や職場で果たしている役割を表面だけになっていないか振り返ったりすることです。オナンのように利益だけを追求し、責任を逃れる態度は、思ったよりもずっと深く根付いていることがあります。約束した連絡を遅らせ続けたり、大切な人の状況を無視したり、自分の体面を優先して弱い人を不快にしたりすることです。
もう一つ、長く心に残るシーンは、ユダの認めです。罪があらわになったとき、私たちはしばしば事実を矮小化したり、状況のせいにしたり、相手の問題に先に言及したりします。しかし、『彼は私よりも正しい』という告白は、自己の罪を素直に受け止めることが、癒しの出発点であることを教えています。家庭内のもめごとでも、誰がより多く悪かったかを争う前に、自分が不足していた一つの責任を認めることで、険悪な空気が少し和らぐこともあります。そのような誠実さが、悔い改めの扉を開きます。
創世記38章は、奇妙で不快かもしれません。それでも、そこにはとても正直な側面があります。聖書は、人がいかに簡単に曲がってしまうかを隠さず、その上で、神がどれほど執拗に約束を守り続けているかも示しています。この物語を読むとき、完璧な人の手本を探すよりも、罪を認め、責任の場所に立ち返る信仰を学ぶことが重要です。家族の中のごたごたの最中でも、約束は絶やさず、神は真実を示し、その真実の上に新たな道を築いてくださるのです。
もし創世記の本文を一貫して読み進めたい方は、聖書を読むのページから続けてお読みになるのも良いでしょう。今日の内容を気軽に振り返るなら、今日の御言葉や今日のマクチェインの読書表も役立ちます。肝心なのは、多く知ることに満足するのではなく、聖書の前で責任を語りつつ、誠実に立つことです。創世記38章は、その地点へ誘います。