しかし、ヨセフは人間の悪よりも大きな神を見つめています。人の罪は確かにあったけれども、その罪さえも神の善なるご計画をくじくことはできません。これが聖書の摂理に対する告白です。神は悪を悪と呼ばず、悪があなたの救いの計画を失敗させることも許しません。
ここで気をつけたいのは、神の摂理を語ることが傷を軽く見ることを意味しません。誰かの痛みの前で「すべて意味があったはずだ」と安易に言うのは、聖書の慰めとかけ離れています。ヨセフは傷を知らない人ではなく、深い傷を通り抜けた人です。だから彼の証しは、空虚な楽観ではなく、涙の上に築かれた信仰です。
創世記45章には、神の救いの計画もはっきりと示されています。飢饉はすでに二年を過ぎ、あと五年が続くとされています。神はヨセフの人生だけを救ったのではありません。契約の家族を守り、アブラハム、イサク、ヤコブに約束された祝福の継続のために働き続けているのです。ヨセフの高まりは、個人の成功ではなく、救いの歴史の一シーンに過ぎません。
兄弟たちへのヨセフの態度も目を引きます。彼は兄弟たちに早く父を連れてくるよう促し、ゴセムの地に住まわせると言います。また、ベニヤミンを抱きしめ、泣き、他の兄弟たちともキスを交わします。関係の回復は一言だけでは終わりません。涙と時間、相手を生かそうとする具体的な行動が伴わなければなりません。
私たちの日常もこれに遠くありません。昔聞いたひどい言葉が心に残っていることもあります。家族内での差別や職場での不当な誤解、親しい人からの裏切りは、簡単に忘れられません。表面上は過去の出来事のように見えても、似たような状況になればまた傷つくこともあります。そんな時、創世記45章は、無理に気持ちを抑え込まないことを教えます。まずは泣くことを許してくれます。
信仰は、涙を禁止する力ではなく、涙を流しながらも崩れない力です。もし今日、心が固くなっていると感じるなら、その理由を軽視してはいけません。何がまだ傷ついているのか、どんな言葉が残っているのかを神の前で正直に見つめることが必要です。
一方で、私たちは兄弟の立場に立つこともあります。傷ついた記憶を長く抱え続ける一方で、誰かに傷つけられた記憶はなかったことにしがちです。無意識のうちに投げた一言や、競争心から出た行動、無視や沈黙は、他者にとって長く尾を引くこともあります。その事実が明るみに出るのを恐れ、避けたくなることもあります。
しかし神は隠れた罪を明るみに出し、私たちをただ打ち倒すだけのお方ではありません。悔い改めを促し、立ち返った者を新しくされる神です。兄弟たちが恐れの中に立っていたその場面で、予想もつかない憐れみを経験したように、私たちも真実に向き合い、神の恵みを学びます。
家族の集まりが近づくたびに心がきつくなる人もいます。以前繰り返し聞いた比較や偏愛の言葉が、今も深く心に残っているからです。周囲は「もう過ぎたことだ」と言いますが、本人にとっては今も痛みの中心かもしれません。その時必要なのは、適当な信仰ではなく、その傷をそのまま神の前に差し出すことです。
また、できるなら、自分が握りしめている怒りや恐怖も、一つ一つ神の前に差し出すことです。すぐに感情が晴れなくても構いません。ただし、傷を自分の人生の主人にしないこと。裁判官の席を神に委ね、許しは悪を良く見せかけることや、何事もなかったかのように振舞うことではありません。場合によっては、賢明な距離の取り方と判断力が必要です。
創世記45章を読んで残る問いは、「私は自分の過去をどのような物語として抱いているか」です。人から受けた出来事だけに目を向けていれば、怒りや不正義の感情に支配されやすくなります。ですが、神の導きも無理やりねじ込んで、痛みを押し込めてはいけません。
ヨセフは二つのことを同時に握っています。兄弟たちの行った悪を無視しつつも、神が命を救ってくださった大きな真実を手放さないことです。このバランスこそが、信仰の深さです。もし誰かの名前が心に浮かんだなら、その名前を神の前に素直に差し出してください。まだ許すことが難しいなら、その事実さえ隠さずに伝えてください。また、心の奥底で引きずっている哀しみや後悔があれば、口実を並べるよりも素直な一言を用意してみてください。神はヨセフの長い歳月も、兄弟たちの恐ろしい沈黙も働き続けておられます。私たちの人生の絡まった部分も、神のみ手の中にあります。