コリント人への手紙第一5章、罪と聖さの基準
コリント人への手紙第一5章に沿って、教会と個人が罪にどう向き合うべきかを見ていきます。放置された罪の危険、キリストの犠牲、悔い改めと聖さの道を、今日の生活に近い黙想としてまとめます。

コリント人への手紙第一5章、罪と聖さの基準
コリント人への手紙第一5章は、読む人を安心させたままにはしません。パウロはコリント教会の中で明らかになった淫らな行いの問題を、非常に厳しく扱います。しかし、叱責の重さはその罪を犯した一人だけにとどまりません。教会がそのことを悲しむどころか、むしろ誇り高ぶっていたことに、より大きな問題がありました。信仰の共同体が愛を語りながら罪を軽く扱い始めると、愛という言葉そのものがぼやけ、人も共同体もともに病んでいきます。
コリントは交易が盛んで、文化的にも華やかな都市でした。人が多く、さまざまな考えが混ざり、都市はいつも慌ただしかったでしょう。そのような場所に建てられた教会も、外の空気の影響を受けやすかったはずです。主に召された民として生きていても、以前の生活の習慣や都市の雰囲気を完全に振り払うことは容易ではありませんでした。だからといって、その困難が罪を見過ごす理由にはなりません。
パウロが扱う問題は、単なる失敗や未熟さの程度ではありません。コリント人への手紙第一5章1節は、その罪が異邦人の間でさえ見つけにくいものだと語ります。ここでさらに痛いのは、罪そのものだけでなく、その罪に対する共同体の鈍さです。泣くべき場所で無感覚になり、正すべき場所で沈黙していました。聖書が語る信仰は、罪に鈍くなる道ではありません。むしろ光の中を歩むほど、罪を罪として見分ける感覚が生きてきます。
ここで愛を誤解してはいけません。聖書が語る愛は、過ちを見ないふりをする態度ではありません。相手を不快にさせないために真実を先送りすることでもありません。真の愛とは、魂が壊れないように、痛みがあっても必要な言葉を語る愛です。親が子どもの危険な習慣を見て笑って済ませないように、教会も罪を放置する方法で憐れみを示すことはできません。
パウロは自分が遠く離れていても、主イエスの名と力にあってすでに判断したと語ります。そして教会が集まったとき、その人をサタンに引き渡すよう勧めます。この表現は厳しく冷たく聞こえるかもしれません。しかし目的は破壊ではなく悔い改めです。コリント人への手紙第一5章5節は、「それは肉が滅ぼされても、主イエスの日に霊が救われるためです」と語ります。教会の懲戒は復讐でも、体面を守ることでもありません。罪人を完全に捨てる行動でもありません。罪の深刻さを悟らせ、立ち返らせるための最後の警告です。
6節でパウロは、よく知られたたとえを取り上げます。「あなたがたが誇っているのはよくないことです。少しのパン種が、こねた粉全体を膨らませることを知らないのですか。」少しのパン種が生地全体に広がるように、共同体の中で放置された罪も一人で終わりません。最初は「このくらいなら大丈夫」と見過ごします。時間がたつと基準が下がります。その次には、恥じるべきことを語れない雰囲気が根づきます。罪はいつも静かに広がりますが、残す傷は決して小さくありません。
この言葉は教会共同体だけに当てはまりません。個人の生活も同じです。心に抱いた一つの憎しみ、繰り返す一つの嘘、人に知られていないからと握り続ける隠れた習慣が、生活全体を染めることがあります。罪はいつも自分を小さく見せます。「今回だけだ」「この程度は誰でもする」とささやきます。しかし実際には、考えと言葉と関係を少しずつ歪めていきます。
パウロは続いて、古いパン種を取り除きなさいと勧めます。そして理由をはっきり語ります。「私たちの過越の羊、キリストが、すでにほふられたからです」(コリント人への手紙第一5章7節)。ここで視線は一気に福音へ移ります。聖く生きなさいという求めが、ただ道徳的な緊張を与える言葉ではない理由がここにあります。私たちは自分を清くして神のもとへ行く人ではありません。すでに犠牲となられたキリストによって、神の民とされた人です。聖さは救いを得る条件ではなく、救われた人が歩む実りの道です。
過越の背景を思い浮かべると、パウロの言葉はさらに鮮明になります。出エジプトの時、イスラエルは急いで旅立つ準備をし、種なしパンを食べました。古い生活を後にして、神の救いに従って出発する場面でした。パウロはその場面を取り上げ、キリストの血によって救われた人らしく、古いパン種を抱えて生きないよう勧めます。唇では救いを語りながら、生活では以前の人の匂いを手放そうとしない態度を揺さぶる言葉です。
だから8節の勧めは重いだけでなく、澄んでいます。パウロは悪意と悪行のパン種ではなく、純粋さと真実の種なしパンで祭りを祝おうと語ります。純粋さとは、飾らない心です。真実とは、神の前でも人の前でも別の顔をつけない態度です。信仰は、外からきちんとして見える演出ではありません。隠れた場所にまで福音の光が差し込む生活です。
この言葉を今日一日に重ねると、思った以上に身近な場面が浮かびます。職場で小さな抜け道を皆が当然のことと考えるとき、自分も従うのか、立ち止まるのかを選ばなければなりません。家族と争った後、自分の言葉が残した傷を見ないまま、相手の間違いだけを握りしめる夜もあります。誰にも知られないから大丈夫だと、スマートフォンの画面の前で続ける習慣や、お金の問題で少しだけ曖昧に処理しようとする誘惑も同じです。パン種はいつも些細な顔をして入ってきます。
一方、恵みも小さく始まります。過ちを認め、短くても謝る一言、「皆もやっている」という言葉を断る静かな決心、御言葉の前で言い訳ではなく悔い改めを選ぶ瞬間が、生活の方向を変えます。朝に読んだ一節が昼の選択を支え、その選択が夕方の平安を生みます。聖さは特別な人だけにある特別な場面ではありません。福音のために今日一歩違う歩みをするところに現れます。
コリント人への手紙第一5章は、まず他人の罪を見つける目を私たちに与えるのではありません。むしろ、自分の中であまりにも長く正当化してきたものを調べさせます。自分は何を深刻に受け止め、何を先延ばしにしているのかを振り返らせます。悲しむべき罪を慣れで覆っていないか、悔い改めるべきことを性格や環境のせいにしていないか、と静かに問いかけます。
教会が聖さを握ることは、冷酷になろうという意味ではありません。福音を安価なものにしないという意味です。キリストが血を流して買い取られた共同体なら、罪を冗談のように扱わないでしょう。同時に、悔い改める人に対して、断罪の石をいつまでも握り続けることもしないでしょう。福音は罪を軽く扱いませんが、悔い改める罪人を見捨てることもありません。
今日この章を読んで、遠くまで行く必要はありません。自分の言葉と習慣と関係の中に、古いパン種のように残っているものを一つだけ正直に握れば十分です。「大丈夫」と見過ごしてきた小さな妥協があるなら、その場所で立ち止まってください。そしてそれをキリストの十字架の前に持って行ってみてください。罪を隠す心ではなく、明らかにして立ち返る心の上に、主は再び純粋さと真実の道を開いてくださいます。
毎日落ち着いて聖書を読みたいなら、聖書を読むや今日の御言葉をそばに置き、本文を続けて見ていくのもよいでしょう。コリント人への手紙第一のように心を刺す御言葉の前では、急いで通り過ぎるより、一節ずつ立ち止まって読むほうが役立つことがあります。今日、コリント人への手紙第一5章は自分の中の何を明らかにしたのか、そしてどのような従順で答えるべきなのかを、ゆっくり考えてみてください。
関連記事
この記事の内容を今日の聖書通読につなげましょう
マクチェーン表、順序読み、メモ、進捗を一つにまとめると、次に読む箇所が迷わず分かります。
- 今日の本文確認
- 読了チェック
- メモとハイライト
