この「人を捕る」という言葉は、害をなす捕獲ではなく、死に向かう人を救いありの命へと導く召命です。魚を捕る手は、今では伝道の生活へと移ります。これは仕事自体を否定する意ではありません。生き方の中心が変わることを意味します。何をして生きるかも重要ですが、だれの言葉のもとに生きるかがより重要です。
この場面は、今の私たちの日常とも重なります。会社で長く準備したことが、無駄に終わることもあります。家庭では、長く気づかってきた関係が簡単に崩れることもあります。奉仕や勤めも同じです。頑張った分だけ結果がすぐ見えないときに、心はすぐに硬くなります。そのとき、私たちは二つの道の前に立ちます。あきらめて網をしまうか、言葉のために再び網を下ろすかを選ばなければなりません。
言葉に依拠した従順は、ただ大きな事件として現れるだけではありません。不快でも延ばしたままの謝罪をすることから始まります。損失を感じても誠実な選択をすること、疲れていても一日の最初に言葉の前に立つことも同じです。会議で自分の考えだけを押し通さず、もう一度耳を傾ける態度や、家族に対する日常のイライラを優しく語る決心も同じ従順です。深いところへ行く従順は、遠くにあるわけではありません。
もう一つ見逃してはならない点は、イエスがシモンを呼び寄せた場所が、まさに失敗の現場だったという事実です。私たちは準備が整ったときに神が私たちを用いると考えがちですが、本文は空の網のそばで始まります。面映い場所、恥ずかしい場所、もう思い出したくない場所も、主は見放しません。むしろ、その場所で語り、そこから従順を学ばせてくださいます。
ルカによる福音書5章を読むと、従順と恵みは切り離せないということも見えてきます。ペテロが従順したから恵みを得たのではありません。最初に船に乗り、最初に語り、最初に召されたのはイエスご自身です。私たちの従順は、その恵みに後から応答するようなものです。だから、信仰は自己確信を深めることではなく、主の言葉に頼ることです。
この章の最後には、弟子たちは船を陸に上げてすべてを捨ててイエスに従います(ルカ 5:11)。これは無責任な衝動を美化する場面ではありません。彼らは、何がより大きな価値かを見ていました。ちょうどさっきまで最も現実的な問題だった魚と網よりも、イエスご自身がはるかに大きく見えたのです。人の生き方は、常により大きく見えるものに従って動きます。だからこそ、信仰の中心は無理やり決心することではなく、もう一度主を見つめ直すことにあります。
今日心に留めたい問いがひとつあります。それは、「最近、何を基準に動いているのか」です。過去の失敗の記憶ですか、自分の経験の計算ですか、それとも主の言葉ですか。徹夜した場所でも、ただちに主は語っておられます。その声を軽く流さず、この一日を過ごすことが、思ったよりも深い水辺へ私たちを連れていくでしょう。
ルカによる福音書5章を読んで、もう一度ゆっくりと本文を見返してみたいなら、聖書読みから続きをお読みください。言葉の前に留まる習慣が弱まったと感じたら、今日の御言葉や365日聖書通読計画もお勧めです。大切なのは、多くを知ることではなく、今日の自分の歩みの中で言葉に頼る一歩を踏み出すことです。